前田博(まえだ・ひろし)さん
【プロフィール】
1970年5月25日生まれ。愛知県名古屋市出身。 ブリーダー歴32年。野崎採種場の育種部門トップ。担当品種はキャベツ・白菜。 |
ブリーダー歴32年:野崎採種場トップブリーダー
──前田さんの経歴やブリーダーを目指したきっかけなどについて教えてください。
野崎採種場のブリーダーになって今年で32年になります。
農業に関心を持ったきっかけは、農家である僕の祖父と休日に畑仕事を手伝っていた父でした。幼い頃からよく畑仕事を見たり手伝ったりと、農業を身近に感じられる環境にいたんです。ただ中学・高校では部活動に打ち込んでいたこともあって農業への関心は薄れていて、当初は工学系の大学に進もうかと考えていました。しかし、受験勉強をしながら「なんかそれでいいのかな……」とモヤモヤしていた頃、祖父の畑で過ごしていた記憶がふとよみがえったのです。そのひらめきにより、工学系とはまったく畑違いの農学系の大学に進学することを決めました。そして、大学卒業後、名古屋で種苗メーカーを営む野崎採種場に新卒で就職したんです。
入社当初は、白菜の品種開発・改良が主な業務でした。しかし、時代と共に白菜の需要や消費量は徐々に低下していました。そのことを当社でも認識し、白菜以外にも強い品種を作ろうと会社一丸となり、キャベツやブロッコリーなどの品目に重点を置くようになったんです。
試験圃場(ほじょう)は知多半島。生産現場に近い環境での育種業
──おじいさんたちの思い出に引き止められなければ、ブリーダーとは違った道を歩んでいたのかもしれませんね。現在の前田さんの業務や品種開発・改良に関することについても聞かせてください。
現在育種に携わっている品目は、キャベツ・白菜です。品種開発・改良は、本社から50キロ離れた知多半島の試験圃場で行っています。知多半島はキャベツの大産地である渥美(あつみ)半島と距離が近く、生産現場により近い環境下での育種を実現しています。この環境でキャベツなどの育種に取り組めるのは、当社の強みです。
一日の流れとしては、まず名古屋市の本社へ出社してスタッフと打ち合わせをします。その後、社用車でスタッフと共に、片道1時間かけて知多半島の試験圃場へ移動します。到着したら各自担当の持ち場で作業を開始します。
僕の主な作業は、さまざまな品種を比較して調べたり、新しい品種の親となる系統を選んだりすることなどです。品種を開発・改良する工程では、人の手による交配が不可欠であり、機械に頼れない作業になります。具体的には、花粉を提供する側の花からおしべを摘み取り、種を実らせたい側の花のめしべの先端に、そのおしべを触れさせて花粉を付着させます。
──育種における交配作業の機械化は難しいのですね。勝手ながらミツバチなどに任せているものだと思っていました。
そのため、キャベツなどが花を咲かせる4月は交配作業がピークを迎え、同時に社内全体の繁忙期になります。
他にも、試験圃場へ視察・研修に来られた方々への案内や品種の説明を行っています。また僕個人としては、品種の比較調査と選抜作業が重なる2・3月から忙しくなります。
20年以上のロングセラーを誇るキャベツ「冬のぼり」
──野崎採種場のラインアップの中で人気が高い品種と言えば何でしょうか。
多くの生産者に使っていただいている品種は「冬のぼり」です。
冬のぼりは、発売から20年たった今でも支持されている晩生(おくて)品種のキャベツです。冬のぼりが登場する以前は、4月に安定して収穫できる品種が少なかったんです。そうした状況下で発売された冬のぼりは、4月に収穫するキャベツの安定供給を可能にした画期的な品種となります。大きく育ちやすく重量もあるので、加工用にも市場出しにも適したキャベツとなっています。
ところが、近年の気候変動により、冬のぼりをはじめ、既存品種では対応が難しい状況が増えています。特に今年(2024年)は高温障害による被害が多く、発芽不良や畑に植えても根が定着しないなどといったことが散見されました。そのため、昨今の気象状況下でも安定して育てられる品種を目指して開発・改良に取り組んでいます。
決断の連続。後戻りできない品種開発の裏側
──これまでの品種が通用しない事態が増えてきているのですね。他に品種開発・改良する際に重視していることや苦労している点はありますか。
僕が重視していることは「メーカーの独りよがりの品種開発はしない」ということです。作物を栽培する生産者の声に耳を傾けることを大切にしています。実際に生産者と話すときは、どのような課題や悩みを抱えているのかをお聞きします。たとえば、「安定して大きく育ってほしい」「病害への耐性が欲しい」といった要望です。そして、その声を念頭に置きながら品種開発に取り組みます。
また苦労する点でいえば、品種開発は後戻りが難しいということです。開発の過程では、膨大な数の系統から優れた特性を持つものを選抜し、さらにそれらをかけ合わせて進めていきます。その際、「もしかしたら前の選抜で外した系統のほうが良かったかも」と気づいても、それと同じ系統を再現するのはほぼ不可能なのです。新品種開発は、後戻りできない決断の連続です。
開発期間10年以上のキャベツ「冬はるか」。ブリーダーの信念と情熱が成し遂げた新品種
──品種開発の裏にはブリーダーの数え切れない苦悩と決断があるのですね。2024年には新品種「冬はるか」が発売されましたが、冬はるかの特徴や開発秘話についても教えてください。
これまでの品種は、近年気温が上昇している3月から4月において、わき芽や花芽が発生しやすいことが課題でした。これは、キャベツの品質低下につながり、収穫作業も困難にしていました。
「冬はるか」は、玉下からのわき芽や玉内部の花芽の発生が少なく、収穫の作業性に優れた晩生品種のキャベツです。畑に長期間置いておける在圃(ざいほ)性も特徴になります。
そのため、冬のぼりの次世代を担う品種として注目されています。
そして冬はるかは、10年以上の歳月をかけて生み出した渾身(こんしん)の品種になります。品種の開発は自然を相手にするので、思うようにいかず苦労することも多いのですが、理想とする品種を実現できたときの喜びはブリーダー冥利につきます。
目の前の利益よりも生産者にとってのベストを提案したい
──冬はるかは前田さんの情熱と生産者への思いによって生み出された品種ですね。3月から4月どりのキャベツとしては完璧なのではないでしょうか。
もちろん優れたキャベツとしておすすめできるのですが、「完璧な品種」というのは正直ありません。品種開発を手がけるブリーダー本人がそれを一番に知っています。どの品種にもいい面があり、同時に改良すべき課題点も見えてきます。
また、生産者と話す機会があったときには、どのような品種がおすすめかと聞かれることがあります。そのとき僕は自社・他社を問わず、生産者の要望から栽培状況、環境などを考慮した上で、最もマッチした品種をおすすめしています。目の前の利益よりも、生産者が少しでも悩まず栽培できる品種を提案したいという思いがあるからです。
この姿勢を胸に、これからも生産者の立場に寄り添い、安心して使ってもらえる品種の開発・改良に取り組んでいきます。