念願の美容業界で味わった挫折
海老沢さんは茨城県城里町出身。高校在学中に美容分野への興味を抱き、水戸市の進学校を卒業後は短期大学に進学しエステを専攻した。その後、念願かなって横浜のエステサロンに就職するも、待っていたのは理想と現実とのギャップの大きさだったと海老沢さんは言う。「やりたかったことが実現できなかったんです。私が職場選びで重視していたのが人間関係だったのですが、今でいうハラスメントに近いことが横行していて、まともに施術の機会すら与えてもらえませんでした。美容業界では施術の経験を積まないと体が忘れてしまいます。どんどん下手になっていく自分に嫌気が差してしまいました」。ファーストキャリアを振り返る言葉に残念さがにじむ。
6月に退職した海老沢さんは「エステの世界が怖くなってしまった」と、業界から決別。翌月からは自宅のあった横浜市内のケーキ店でのパート勤務で生計を立てることにした。当時同居していた現在の夫から掛けられた「パートをしながらやりたいことを探したらどうか」という言葉が背中を押してくれた。
パートを辞め、子育てに専念
ケーキ店での接客業を1年ほど続けた海老沢さんには、新たに見据えていたことがあった。子どもを授かり、家庭を築くことだ。
「同居していた当時の彼と結婚してまもなく、お金を貯めようと、茨城にある私の実家で夫と同居することになりました」。それに伴い、勤務先も水戸市にある系列店に移した。
子どもを授かったのは、2年後の2020年のことだ。「仕事にはやりがいを感じていたのですが、当時は産休・育休に関する制度が無かったため、退職して育児に専念することにしました」
翌年の5月、24歳で男の子を出産した海老沢さん。夜泣きによる睡眠不足や3時間おきの授乳は堪えたが、それ以上につらかったことが人との関わりが希薄になっていたことだったと振り返る。「同居する両親は共に公務員で、夫も朝から晩まで仕事に追われていたので、ずっと子どもと2人きりの生活でした。子どもは本当に可愛いくて仕方なかったのですが、次第に産後うつに近い精神状態になってしまって。保育園に預けてでも、自分自身のために働くべきと考え、子どもが1歳になったタイミングで復職を決意しました」
一方で、幼い子どもを育てる母親がイチから職場を探す難しさにも直面した。
「以前働いていたケーキ屋さんへの出戻りも考えましたが、9~15時の勤務帯は人が充足していて難しいという反応でした。他を探そうにも、簡単には見つからなかったですね」
農業分野で再始動
転機は父が紹介してくれた株式会社ドロップの記事だった。ママにとって働きやすい環境と、同じ境遇の従業員が多いことに引かれた。
株式会社ドロップは、「美容トマト」の名で知られるフルーツトマトを生産する農業法人。
従業員の多くを女性が占め、特に子育てママが活躍できる職場環境に定評があった。
「女性が働きやすい環境を一番に求めていましたし、何より妊娠前に食べたドロップのトマトのおいしさを鮮明に覚えていたことが大きいです。自動販売機でトマトを買って食べた時、『トマトってこんなにおいしいんだ』と感動したのをよく覚えています。今度は生産者としてドロップのトマトを広げていきたいという気持ちでした」
当時、同社は求人を載せていなかったが、「何でもやります」と電話で訴えた。熱意が伝わり、面接を経て2022年に直売所のパート従業員として入社した。海老沢さんはこれまでの経験を生かし、主に直売所の接客を担当。翌2月に直売所で販売する商品を手掛ける作業場に活躍の場を移した。
作業場ではハウスで収穫されたトマトの中からトマトを選別し、パッケージ、梱包、出荷までを担う。
「作業場は一日の絶対出荷量があらかじめ決まっているため、時間内に全て終わらせるためにはスピード感を持ちつつ丁寧に梱包する必要があります。そこで、まずは先輩の技術を目で盗み、実践することを徹底しました」。細かい動きまで盗んで体で覚えるうち、自分のやりやすい方法にアレンジしながら、徐々にスピーディーに作業できるようになっていった。「作業が終わらない分は、社長や社員さんが居残りしてこなすことになります。それは申し訳ない」という一心で仕事を全うした。
正社員になりたい!原動力は「ここでずっと仕事がしたい」から
経験を重ねるうち、海老沢さんに芽生え始めたのは、農業法人でキャリアを築きたいという思いだった。「当時は夫の扶養内で勤務していたのですが、次第に正社員になりたいという気持ちが芽生えてきました。もっと作業場に貢献したいという気持ちがあったのはもちろん、重要視していた人間関係の面でとても居心地が良かったんです。ずっとここで仕事がしたい。その気持ちを、社長に直接伝えましたね」
当時、同社には正社員の採用枠は無かったものの、これまでの丁寧な仕事ぶりと熱意が認められ「まずは正社員の見習いとして、フルタイムの勤務をしてみる形ではどうか」と、試用期間ながら正社員雇用となった。
「小さい子どもを育てる母親をパートから正社員にするという、会社にとってリスクがあることにも関わらず、私のキャリアについて考えて提案してくれたのが嬉しかったですね」。試用期間が始まった4カ月後の2024年1月には、正式に正社員雇用となり、チーフの役職を拝命。これまで作業員として携わっていた作業場では、数名のスタッフを束ねる立場になった。
作業場チーフとして職責に向き合う
責任者となった海老沢さんが最初に手掛けた試みが、作業方針の思い切った変更だ。
「1日の作業ペースが課題だと感じていました。作業場の業務がよりうまく回るかを考えた結果、これまで選別、パッケージング、梱包の全てをスタッフがそれぞれ担っていた体制から、作業ごとの分担制に変更しました。選別が得意な人が選別を、梱包が得意な人が梱包をするようになり、私にとっても指示が送りやすいようになり、作業場が良く回り始めたと感じています」
より作業がスムーズに進むよう、前日の夜には脳内でシミュレーションすることも欠かさない。「明日のタスクから逆算して、次の日の進め方を考えています。作業場は急に出荷予定が早まったり、スタッフの急なお休みなどのイレギュラーが多い部署なので。不測の事態にも対応できるよう心づもりしています」
スーパーなどで、自社で作ったトマトをお客が手に取る様子を見ると、この上なくやりがいを感じると語る海老沢さん。今後のキャリアの軸は「仕事と育児の両立」だ。
「弊社では現在、4棟のハウスで栽培していますが、将来的に拡大していくとなると、今の作業場のペースでは追いつかないと思っています。もっと上手に人を動かせるようになりたい。スタッフ全員が家庭と仕事を両立していくためにも、職場環境づくりに一層取り組みたいですね。自分自身が子どもや家庭と関わる時間をちゃんと確保しつつ、作業場チーフとして現場を支えていきたいですね」
かつて職場選びで重視していた「職場の人間関係の良さ」。今は自らの手で、よりよい職場づくりに向き合っている。
取材協力
■「農業の魅力発信コンソーシアム」
農業の魅力発信コンソーシアムは、農林水産省の補助事業を活用し、農業現場で活躍する「ロールモデル農業者」との接点を通じてこれまで農業に関わりの無かった人が「職業としての農業の魅力」を知る機会を創るために、イベントの開催やメディア・SNSを通じた情報発信を行っています。
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